発達障害児を授かったのは試練ではなく神の粋な計らいだった

子育ての疲れで汚れきった心

 

発達障害の子供を抱えていると、

日々の常識の枠を越えた子育てに疲れ果ててしまう。

 

故に、ついつい被害者的な意識を持ってしまいがちな自分を知る。

 

心身ともに健康なお子さんを見ていると

すごく羨ましい
妬ましい

なんだか良くない感情に覆われることがある。

 

隣の芝は青いとは良く言ったもの。

健常のお子さんを持つママ友を見て、

 

なんて楽な子育て!

 

そんな風に私の汚れきった心は叫んでしまう。

 

だけど偽善的な私は、まるでそんな素振りは見せないのだけれど。

 

おかん
子供はみんなで育てよう!

 

…的な

そんな意識を持っているフリをするのが趣味なのかもしれない💦

 

とにかく破壊的な多動児を抱えて方々で頭を下げる日常は

私の心を醜く湾曲させていった。

 

私は苦労しているのだという意地

 

発達障害児の育児で疲れきった私は鼻で笑う。

 

周囲のママ友たちの他愛もない子育ての悩みを…

健常な子を育てているくらいで子育ての悩みだとか軽々しく言うな、と。

 

たかがそれくらいで、
それくらいのことが何なんだ、

 

うちの子なんて手を離したら行方不明、

少しでも目を離したら大暴れで人様に迷惑をかける。

 

そして謝らなければならない、冷たい視線を浴びなければいけない、

あなたたちなんて、あなたたちなんて

楽な子育てをしている分際で私と同じラインに立つな。

 

そんな汚い感情が溢れ出そうだった。

だけど常に良い人ぶりたい私は、仏のような顔でやり過ごす。

 

おかん
大変な時期を一緒に乗り越えようね!

 

なんて心にもないことを言いたくなってしまう。

 

私はあなたたちよりも子育てを頑張っているから
私の方が上なのだという目線を維持しなければ

 

私は壊れそうだったから。

意地でも私は涼しげな顔を見せ続けた。

 

子育ての辛さはみんな同じ

 

神は何故、私にこんな試練を与えた?

そんな風に神様の責任にしておけば楽だったのかもしれない。

 

試練を与えられてしまった

 

そんな被害妄想が膨らんでいたけれど、

後に振り返ってみたら、それは全くの勘違いだったと知ることになる。

 

ソレは逆だった

 

周囲の健常の子供を育てる人たちとの交流も怠らなかった私の意地が

私の学びとなり、ある考えまで辿りついた。

 

全ては不器用な私への神の計らいのようだ

 

発達障害を抱えている息子は気持ちの抑制が効かない。

 

嫌なら嫌、嬉しいなら嬉しい、悲しいなら悲しい

そんな具合に感情をむきだしに生きている。

 

それ故に不安定な情緒は私の手を煩わした訳だけど

私にはこの息子しか育てられなかった。

 

おかん
だって、わりやすいんですもん!

 

健常のお子さんを観察していると、

奥ゆかしくって慎ましやかで

感情が表に出にくいのね。

大人ばりに気遣いが出来る子もいるよね。

 

悲しいの?嬉しいの?嫌なの?
あなたはどう思っているの?

 

聞いても本心を答えてくれない子供も…

親からしたら、たまったもんじゃない。

子供の心を察しながら、信号をキャッチしながらのヒヤヒヤな子育て。

 

私には育てられないよ。

 

そんな繊細な子供を育てられないであろう私に神が与えてくれた宝は

破壊的な多動児という、とても純粋かつ単純明快な生きモノ。

 

幸いなことに当時の私には、ソレを全力で受け止める体力もあった。

 

猿に猿の子を与えただけ、だったのだろう。

 

私は神に甘やかされた子であったと

未熟な猿(私)は、ようやく気付くのである。

 

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