
発達障害あるある 障害が確定するまでのモヤモヤ期間
我が家には自閉症スペクトラムの娘がいる。
彼女は知的な遅れはないんだけれど、とにかくのんびりで我流の感性を大事に生きている人。
自閉症あるあるもたくさん当てはまる個性が強めな人。
生まれ出たその時から彼女はマイペースだった。
だいたい1歳6か月くらいで母としては
ずっと抱いていた不安が確信へと繋がり始めたちょうどその頃、私の仕事復帰と重なり保育園へと入園することになった。
通園前に面談があり、偏食などのその他諸々のこだわりが強い事を伝えておいた。
『保育園に通えばきっと変化があるでしょう』
園の先生の見解であり、私もまだそう思っていた。
知的な遅れがない分、判定が難しい。
市の検診でも保育園でも家庭でもそれは同じ。
発達障害という診断もされてなかったし、そうなのか?そうでないのか?
その見極めが困難だった。
保育士のイライラが伝わる悲しみ
運よく通園することになった保育園では1歳児クラスからのスタート。
個性が強めの子だということは承知ではいるけれど、この時点では発達障害ということはわかってはいない。
親の私も難しい子の子育てに悩み、手をこまねいていたんだから、もちろん園の先生方もそこは同じである。
他の子の様にテンプレ通りにはいかない教え子に頭を抱える羽目になるのだから。
保育士3人体制のそのクラスではあるけれど、先生1人が確実に我が娘だけに付きっきりになる。
食べない、飲まない、声掛けに耳を傾けない、みんなとの活動なんてものはこの子にとってはハイレベルな技。
というか、何人たりとも娘の目には映っていない。
無の境地で黙々と独自の感性で完全我流の生き方を望む者。
集団生活の輪を乱すものはどんなに幼くとも迷惑な存在なのだ。
それは重々承知、申し訳ない…!
なぜこんなにも育てにくい?
知的な遅れはないのだということだけは、誰の目にもはっきりとしていたのだから。
ただただ先生方の疲れた様子に感謝や申し訳ない思いが入り混じり、私はどんな顔をして毎日連れていけば良いのかもわからなかった。
発達障害児を預かってくれる園探し
1歳児、2歳児までは保育士の手を煩わせながらも、担任が1クラス3人体制という環境。
その為に娘の発達の遅れはそれほど問題視されてはいなかった。
大きな壁は3歳児クラスに上がる時。
世間でいう年少さん
家庭保育をしてきたご家庭も幼稚園に入園するお年頃、そりゃもう普通の子であればしっかりしている。
あきらかに周囲には追いついていない娘の姿があった。
この時もまだ発達障害の診断は下されていない。
というか検診でも経過観察というだけで病院や療育などへの導きは一切なかった。
この子は何者なのだ?というモヤモヤが何年も続いていた。
年少に上がる前の秋、園長に面談を求められたのだ。
嫌な予感しか常にない。
相変わらずのモヤモヤを胸に、私が聞かされたのは衝撃の言葉だった。
『次の学年からは担任一人体制になりますので、お預かりできないかもしれません』
目の前が真っ白になったのは言うまでもない。
でも仕方がない。
この子が大変な子だというのは親の私が一番よくわかっている。
上の息子は多動が酷い子だけども日常生活自体はしっかりしていた。
受け入れ拒否などというシステムを初めて知った。
こんな段階で進路に行き詰まる
そんな人もいるんだということに私は気づいたのである。
そこから娘の進路探しの日々が始まる。
加配保育士制度
その後、結論から言うと、娘は引き続き同じ保育園へ通園することが叶った。
園長先生が言いたかったのは、病院へ受診してみてはどうか?というアドバイスだったんだと今ならわかる。
それならそうと早く言ってくれたならば、もっと早く動いたんだけど園も私達を傷つけないようにタイミングを見計らっていたようだ。
ようやく私達は初めての受診をすることになる。
発達遅延が認められると告げられたものの、この時点でも診断名は出なかった。
正式に自閉症スペクトラムと診断されるのはもっと先である。
それでも診断書が出たことで進むべき道が開けた。
加配制度を利用することが出来たのだ。
そのような仕組みがあることも全然知らなかった私。
今ならば色んなことが理解できるけれど、訳もわからず過ぎ去った日々はとにかく毎日必死だった。
発達障害だとわかっていない時期というのがあまりにも長すぎた為に抱えたモヤモヤは大きくなりすぎた。
自分でも可哀そうな暗黒期間だったと思う。
軽度発達障害者は支援難民だ
これは私の口ぐせになっている。